犬を飼ってしつけをしよう

賢い犬にしたいのです

イヌの本能行動

本能とは何でしょうか? 生物学者のあるグループは、「遺伝的にプログラムされた行動」を本能と見なしています。つまり、学習しなくても生まれつき持っている能力です。

本能の定義には、たとえば次のようなものがあります。

・生まれた時点で(あるいは特定の発達段階で)存在するもの
・学習されないもの
・使われるようになる前から発達しているもの
・いったん発達すると変わらないもの
・その種に属する全員(少なくとも同じ性別、同じ年齢の個体ならすべて)が共有するもの
・独特の行動システム(たとえば狩猟採集など)に体系化されるもの
・独特の神経モジュール(神経回路)の支配を受けるもの
・進化の過程で適応するもの
・保持する遺伝子のちがいによって個体ごとに差が生じるもの

以上はいずれも、イギリスの進化生物学者パトリックーベイトソンの定義です。ベイトソンは、コンパニオンアニマル(伴侶動物)にも関心を持っていて、ネコの行動学についての本も書いています。

しかし、ベイトソンの挙げたこの定義のすべてが正しいわけではありません。実は、科学者の多くが「本能」の定義に手を焼いているのです。人によっては、本能という言葉をわざと避ける場合もあります。

それではいったい本能とは? こう突っ込みが入る前に、まずは、イヌの本能行動にはどんなものがあるか。この点に話題をふりましょう。以下、考えられるものをリストにしてみます。

・群れをつくる
・追いかける
・待ち伏せる
・攻撃する
・捕食する
・防御する(危険を避ける)
・巣穴を清潔に保ち、巣穴の外で排尿する
・棲家の近くを糞や尿でマーキングする

さて、思い当たるままに列挙してみましたが、これらからあなたは何を読みとるでしょうか。以下、私なりに読み解いてみます。

最初の三つは、イヌが人間の伴侶動物となった要因ともいえます。人はイヌの「群れをつくる」「追いかける」「待ち伏せる」といった本能的な行動に着目し、その特質を伸ばして自分たちの生活に役立ててきたのです。

たとえば、牧羊犬は羊の群れを集めたり、移動させたりすることができます。

オーストラリアのクイーンズランド州で、ボーダー・コリーの仕事を観察したことがあります。黒地に白のぶちのあるふさふさとした被毛をまとったこの牧羊犬は、羊を1ヵ所に集めます。

全速力で走ったかと思うと、羊に近づくにつれてスピードを落とします。その後、ふたたびテンポを上げ、一定のスピードを保ちながら、群れのまわりをぐるぐるまわり、羊たちを一つにまとめあげ、ついには羊の背中に乗りながら囲いのほうへ追いたてます。羊が囲いのそばへ行くと、オーケストラの指揮者が最後のタクトを振り下ろすように、颯爽と飛び降り、やさしく中へ追い込みます。

この能力は、イヌの先祖から連綿と受け継がれた、狩猟技術に由来しています。オオカミや一部の野生犬は、獲物を狩るとき、一頭にねらいを定め、その個体を群れから切り離そうとします。その際、獲物の群れを自分たちにとって都合のいい方向へ追い立て、タイミングを計って襲いかかります。かれらの中には、待ち伏せ役に徹する個体もいるということです。ボーダー・コリーが重心を低くして、うずくまるような姿勢で羊をにらみつけるのは、この待ち伏せの習性の名残だという説があります。

次に攻撃と捕食について。

エーベルハルト・トルムラーは、イヌの狩猟本能について、ディンゴの行動を例にあげて説明しています。

家の中で大きくなった雄のディンゴ、アボリジナルは、4ヵ月齢のとき外に飛び出し、隣家のニワトリに稲妻のような勢いで襲いかかったのです。どうすればいいかを知っているかのように、首の後ろをくわえ込み、何がおこったかニワトリがわからないうちに息の根を止めました。

それから数秒後に、得意げに頭を高くかかげながら、くわえたニワトリをトルムラーのところに持ってきたということです。トルムラーによれば、アボリジナルが一度も獲物を狩った経験がないにもかかわらず、一撃でニワトリをとらえたのは、生まれつきの能力が重要な役割を果たしたということです。

しかし一方で、ドイツやスウェーデンでシカ狩りに使われるエルグハウンドは、「殺しても」食べません。エルグハウンドは、自力でシカを椡すことができます。ところが、椡した後は食べずに、ハンターである飼い主のもとへ知らせに帰るのです。

なぜでしょうか? この事実は、脳科学的に説明できます。一般に、動物行動学では、捕食性攻撃以外の社会生活上の様々な攻撃行動を「社会的攻撃」と定義します。「社会的攻撃」と捕食性攻撃では、脳内の別々のニューロンが作用します。この点は、ラットの研究によっても明らかにされています。つまり獲物を追いたいという衝動が強くても、殺すことは抑制できるということです。

次は「防御」へ話題を転じます。イヌは争いを避けるために、相手にお腹を見せることがあります。一般にいわれている「服従のポーズ」です。しっぽを後脚の間にたくし込んで体の重心を下げることもあります。このしぐさは、降参のサインです。しっぽで覆うことによって、肛門腺から発するフェロモンに蓋をしているのです。視覚的には恐怖のサインを相手に送ることになるのですが、匂いの情報を隠すことで、緊張関係を緩和することができるのです。

「排尿」と「マーキング」についてもふれておきましょう。野生犬の子イヌは、3週齢になる頃には、巣の外へ出て排尿するようになります。巣を汚さず清潔に保とうとする本能が働くからです。一方、巣の周辺のあちこちを糞や尿でマーキングするという習性を持っているので、室内で暮らす場合、家屋のどこからどこまでが巣なのか子イヌには判断できません。そこでトイレのしつけが必要になるのですが、巣を汚すのを嫌う習性のおかげで、このしつけは比較的簡単にできます。

 

犬種差はヒトの個人差ぐらい

2005年、イヌのゲノムが解読され、犬種差は遺伝子のちがいによって生じていることが明らかにされました。

ゲノムの解読に当たったハーヴァード大学、マサチューセッツエ科大学、アメリカ国立ヒトゲノム研究所などの合同グループは、「ターシャ」という名前の雌のボクサーを基準値として選びました。候補犬60犬種100頭の中で、ボクサーのターシャが選ばれたのは、他の犬種と比較してみてDNAの変異が少ないので、塩基約24億個を読みとるのに一番適していると判断されたためです。

がんや心臓病、精神疾患などヒトとイヌには似通った病気が多いことから、このゲノム解析プロジェクトは、ヒトの病気の治療に役立てるのが目的でした。ところが、9犬種のDNAの概要を調べてボクサーのDNAと比べたところ、意外なことが判明しました。

イヌのゲノムを構成している塩基約24億個の中でのちがいは、平均で塩基約900個につきたった1個でした。この割合はヒトの個人差と同じ程度ということです。開きの最も大きいアラスカン・マラミュートとのちがいでも、塩基787個につき1個で、最も開きの小さいイタリアングレーハウンドとのちがいは、954個につき1個でした。

この解析では、もう一つ新しい発見がありました。

イヌの遺伝子数は1万9300個と推測され、そのほとんどがヒトのゲノムにも見られるものだったということです。

研究チームは、このイヌのゲノム解読から、これまで人間特有の遺伝子と考えられていたものは実は間違いなのではないか、という問題を提示しています。また、この解読ではターシャを選んだわけですが、結局はどのイヌであっても同じ様に解読ができることもわかったのです。

この解析結果は、犬種差はヒトの個体差と同じくらいのレベルということを示唆しているといえます。

ある研究履歴について簡単にふれておきます。すでに話題にしていますが、以前、八ヶ岳南麓の牧草地をフィールドにしての研究です。そこでゴールデンーレトリーバーを中心とする127頭のイヌと暮らし、少なくとも4000時間にわたってその行動と生態を観察しました。牧草地の一部は、一般に開放されていたので、夥しい数の家庭犬とその飼い主が来場しました。この牧草地で約80犬種、3000頭近くのイヌの行動を観察したことになります。この体験から次のことがわかりました。

「同じ犬種が同じ環境で育っても、著しい個体差がある」

「同じ犬種が異なる環境で育てば、さらに著しい個体差が生まれる」

一例をあげましょう。ボールを二つ用意します。イヌたちの目の前で一つを手に持って、もう一つはポケットにしまいます。さあ、″モッテコイごっこ″の始まりです。

牧草地のイヌたちと遊んでいると、かれらがボールを見失うことがあります。草むらの中にボールが紛れ込むのです。その際、同じゴールデンーレトリーバーでも、イヌたちの反応には個体差があります。大まかにいえば、探す、探さない、のどちらかです。そのようすを観察していると、同じ「探さない」でも、二つのタイプにわかれます。

もうボールがなくなったかのように、すぐにあきらめる。あるいは、草むらの手前で立ち止まって、他のイヌのようすを眺める。つまり、「探す」タイプを入れて、合計3タイプにわかれるのです。

このモッテコイごっこで面白いのは、その後のイヌたちの行動です。いったん草むらに紛れ込むと探すのが簡単ではないので、人がボールを拾うことになります。もともと夜行性の生活をしていたイヌたちは色覚が人間ほど発達していないので、たとえば草の緑と赤いボールは同系色に見えるのです。

人間が拾うと、次から探そうとしなくなるイヌが増えます。「だって、待ってれば、あなたが拾ってくれるんでしよ?」とでも言うように、草むらの手前で立ち止まるのです。

賢い犬の場合、もっと巧妙です。ポケットに鼻面をくっつけてアラート(告知)してきます。「ポケットに新しいボールを持っているのを知ってます。早く投げてください」という合図を送っているのです。

このように、イヌの個体差は、人間と同じように著しく大きな開きがある、というのが私の実感です。今のところ私の個人的な感触としては、イヌの個体差は犬種差より大きい、と考えています。